昨日、若い言語学者のユーチューブを見て
まさに、ろう重複の人のことだ、と思った件。
ムラブリ語、という言語が
今起きていることを表すことばはあるけれど
完了形とこれからおきることを表すことばが同じである。
つまり、過去と未来の区別がない。それはどちらも今
見えていることではないから。
その言語で暮らす人たちは
今、見えていることの中で生きていて
過去も未来も人に話そうとする習慣がない。
見えていないことの記憶はなく
見えるもののみ存在する。
しかし、現代人我々は、見えていないことを言語化し
見えていないこと、
これからのことをあれやこれや悩む。
もう見えなくなった過去のことを未来にはなくそうとして
あれやこれやの対策を立てる。
しかし、ムラブリ語の人々の暮しには
そんなことには意味がない。
この中で
伊藤氏は本来「言語はからだ」であるのではないか、と問いかける。
驚いたのはこの流れでジャーナリストの神保哲夫氏が
乳幼児が、ろうの兄とのやりとりで
発語が出る前に手話を獲得して、多弁であった
という事例を話されたこと。
ろう重複の人にとって、獲得した手話は
まさに、見えているもの、今目の前にあることと
一体であり、そしてそれで十分なのだという感想。
こちらは
規範やルールや約束事のために、過去のことを
持ち出したり、振り返ったり、目標を話したりする。
そんなことにばっかり目がいかないで
生きていることを賛歌しようよ。
それは、子どもたちにも大人にも生きやすいことだと
思うのだけれど。
村上
2022年05月13日
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